黒い、本当に黒い風が吹いた。
ミストはカルシュデヒトの中で大きなため息をつく。本日通産三度目となる能力の発動に正直な所、 がっかりさせられているからだ。彼女は目を閉じ頭を抱える素振りを見せる。如何にもやれやれといった感じの状態であった。彼女は脱力しきった表情のまま、何かをぼつりと呟く。すると彼女の影から夥しい数の手が出てきた。それは彼女を包み込む。やがて数秒も経つと、彼女はカルシュデヒトから存在を消していた。
ミストは瞼を閉じていた。瞼を透過して見える光によって、目的地に着いた事を確認する。彼女が瞼を開けるとソコは花畑であった。無数の綺麗な花をさかせ優雅な自然が広がる地である。ソレを見て彼女はまた更に深いため息をついた。
「ミストラージェ、この花の名前を知っているか」
その声は彼女の耳にしか届かない振動で彼女の耳へと運ばれた。
「知ってどうする、すぐに無くなるんだ。それに私には元より関係の無い物だ」
彼女はその持ち前の低い声で見えざる声主へと返答する。すると見えざる声主はそれから時間が止まるまで、返答をしなてはくれなかった。返答が無いので彼女も口を開く事は無かった
ミストは花畑の真ん中で横たわっていた。仰向けに大の字でいる。雲一つ無い快晴に少し目を細めながら、良い笑顔を空へ向けていた。彼女の上を幾数もの虫が飛び交う。その様子はまさに『平和』そのものだと彼女は思っていた。すると先程見えざる声主が言っていたこの花の名前が無性に気になる。彼女はアイデンに帰ったら調べてみようと決意した。そしてまた、静かに笑顔を空へと向けたのだった。そのまま彼女は細めていた目を閉じる。平和の真ん中でしばしの眠りについた。
頭の中で大きな鐘の音が鳴り響く。それに反応するかのように、ミストは横たえていた体の上半身を起こした。腕の時計に目をやると1時間ほどの時間が経過している。
「レイム」
彼女がそう言い放つ。すると世界は凍った。時間という概念は凍結したのだった。空を舞う鳥は空中静止をする。音はピタっと聞こえなくなった。風は吹くのを止め、風に吹かれていた花はアンバランスな角度なまま静止している。
彼女は肺から大きく息を排出した。激しく動く心臓を少しでも抑えようと深呼吸を3度、4度と行った。大きく目を見開く。彼女は走りだした。その彼女の走る速さと言ったら人の限界を優に越えている。幼き頃から鍛えられてきたその身体を用いて疾走する。彼女は凍結した世界の中で一人、風を感じていた。花畑をすぎると平坦な道が続く。やがて街へと到達する。それを過ぎるとまた平坦な道が続いた。その平坦な道の傍らに一件の小さな家がある。彼女はその家の前で足を止めた。ドアノブに手をかけ押し引きすると扉は開く。彼女は家の中に堂々と侵入した。すると正面には立ったまま静止した10歳くらいの女の子が居る。彼女はじっと彼女を見つめた。
「目標を捕捉」
彼女はそう言うと目を閉じる。そして小さく「デュー」と呟いた。すると彼女の影から無数の黒い手が出てくる。その黒い手はミストの目の前の少女を包み込んだ。包み込まれた少女は捕まれた部分から姿を消していく。最終的には何も残らなかった。彼女は更に正面にある階段を登った。登りきると、その正面には中肉中背の眼鏡の男が立っている。落ちそうな眼鏡を中指で直している。男は凍結しては居なかった。
「残念だ。君があと少し来るのが遅ければ僕はこの辺り一体の平和と共に無に帰せたのに」
「傲慢がすぎるぞ、フライブ博士。あなたが真臓を右胸に埋め込んでいる事。それから平和を脅かす事。いずれも貴方に許された権利では無い」
ミストがそう言うとフライブは肩の力を抜いて目を閉じた。
「好きにしてくれ」
そう彼が言う。するとミストは無言のまま右手を頭の高さで右から左へとゆっくり動かす。彼女はゆっくりとフライブへ近付いた。彼の髪の毛を右手で掴んで下ろす。すると彼の頭と首は綺麗に分かれていた。ミストは影の手に飲まれ再び姿を消す。それと同時に凍結していた世界はまた活動を始めた。
-----キリトリ-----
空気が凍る。普通の能力者のソレとは違うただならぬ緊迫感にミストは無意識に体中から汗が吹き出ていた。
「そう体を固くすることはあるまい、シオンの楽団の少女よ」
一言一言がまるで剃刀の切れ味と屶の重さをもっている。その様はまさに蛇に睨まれた蛙、動く事も許されずミストは静止したままであった。
「君の技術は恐らく楽団の中でも飛び抜けて高いだろう。だが君はまだまだ経験不足だ。もう700年生きている私が子供扱いされるのだから、我々には君なんて赤ん坊程にしか見えないのだよ。たまたま私が本部に訪れていなければ赤ん坊、つまり君は幼児達を払い除け、このカルシュデヒトからの脱出が可能であっただろう。だが君は非常に運が悪かった」
ミストの方へ向かって女が一歩ずつ近づいてくる。身動きを取れないミストはそれを抵抗も出来ず接近を許す。女は一歩、また一歩と近付き、手の届く距離まで来た。
「私の名前はココア・ティラミス。階級は23位楽団長。少しは有名だから知っているかな。さて、ではこれから君を反逆者として裁こうでは無いか、せいぜい奮闘してくれたまえ」
ココアと名乗る女が何か呟く。すると彼女の肩の上には大きな鷹が止まっていた。
「この鷹は私の愛鷹で名前をPiskey(ピスキー)という。私はピー助と呼んでいるがな」
飼い主の合図と同時にピスキーはミストに向かって飛び出す。そのあまりの速さに、ピスキーはミストが自分が死んだことを理解する前に左胸を貫いてその生を絶ってしまった。
-----キリトリ-----
その少女は目覚める事は無いはずであった。
偉大な楽音が作り出した、人為的に作り出した真臓を埋め込むプロジェクト、真臓計画。元来、偶発的な、何の前触れも無くこの世に出でる能力者を大量養成する、言わば世界への挑戦であった。
その計画に多くの被検体が起用される。その数1万。だが皮肉にもそのサンプル1万全てが失敗に終わった。ある者は血液が逆流し、苦しみながら死んでいく。ある者は突然心臓が停止し、何もわからず死んでいく。ある者は突然五体が引き裂かれながらも死ぬ事が出来ず、懇願して自ら死を望む者も居た。
ミストもその内の一人である。被検体番号1107。それがミストに付けられた名前であった。
彼女は真臓を埋め込んでからというもの、死んだかのように目覚める事は無かった。肝心の真臓は動かず、心臓だけの活動であったミストは、1年以上にも及ぶ死と同義の昏睡の結果、処分される結果となる。
いくつもの出来損ないがゴミ収集所のゴミの様に裸で折り重なっている。プールくらいの大きさで深さは30メートルほど、ミストがそこに運ばれる頃にはその収集所は満タンになりかけであった。死臭と腐敗臭、糞尿の臭いなどがいくつも連鎖となって鼻につく。そこに眠ったままのミストは捨てられた。
翌日、新たなゴミが発生したので処理係は収集所へと処分しに行く。だがそこには、昨日プールを埋め尽くしていたゴミは無かった。あるのは中心に一人立ち尽くす昨日処分した少女。おもむろにその少女は上を見上げ口を開く。
「衣服を調達して頂きたい、私とて女だ。人並み程度の恥は有する。」
|