「君はこの世界が何色なのか知っているかい」
その男が言い放った言葉によって、少年の知る世界の全ては、過去の遺物となってしまった。
季節も冬に差し掛かろうとなる今の時期。気温が比較的に高くは無い地方は夏と冬の感覚が非常に短い。俗に言う『秋』という季節。それは灯の暮らすこの地方では二週間余りしかない、本当に一陣の風のような、瞬間的な季節だ。
灯はこの日の朝、まだ目覚まし時計が空気を掻き鳴らす前に睡眠から脱却した。順当に行けば数分後に鳴り響く筈の時計のアラーム予約を解除して、自身の上半身を起こしながら、普通のソレより重い掛け布団を折り畳む。すると太股の上の辺りに感じる妙な重圧感に少年は気付いた。だがその重圧感が何なのかは早々に予測がついたし、実際、予測するまでも無く確信があった。畳まれた掛け布団に挟まれるように、布団内をもぞもぞと動きだすソレは、些か早い主人の目覚めに、僅かながらの疑問と不快感を抱いていたに違いない。少年はそう思いながらも、状況があまりわかっていないソレを見て娯楽性を感じていた。
「バルバロッサ」
灯がそう呼ぶのと同時に、先程畳んだ掛け布団によって織り成された、長い暗黒迷路の出口から一匹の黒と白の入り交じった猫が顔を出した。バルバロッサと名付けられた猫はサンドイッチの具のようになっている状態を、離脱するようにしてベッドから床へと軽く飛ぶ。バルバロッサとは本来、イタリア語で赤髭の意であり、12世紀中頃に台頭した神聖ローマ皇帝、フリードリヒ一世の呼び名である。灯がこの猫に対してバルバロッサという雄々しい名前を付けたのも、只の無意では無かった。というのも、灯とバルバロッサが初めて出会った時。バルバロッサは生魚を食事中であり、口回りが魚の血で真っ赤だった事に由来する。さながら赤髭を当時の幼い少年にはイメージさせたのだった。
「いってきまーす」
元気な声が拔水家から山の頂きへと響き渡った。少年灯は、その年には似合わぬような、無邪気さを含んだ声をあげて登校の帆を上げる。これは本当に、少年が小学生くらいだった頃からの日課でもあり礼儀でもあった。これから目の当たりに出来る、彼の恋人への言わば最低限の礼儀。こうして声を出せば、きっと恋人も笑顔で迎えてくれるだろうという勝手な妄想を含んだ彼なりの願懸けなのだ。靴を履くと、まるで靴が自分の体の一部かのように素肌に食い付く。一か月前。靴を新調したばかりの頃は、靴の形がまだ足に合わず、妙な居心地の悪さを心に控えていたのに、今ではすっかりこの様だ。それもその筈。毎日あれだけの道程を歩いていたのだ。少年と靴の意地の張り合いは、武力行使で靴の敗北であったに違いない。
拔水家は、山の頂と言っても過言では無い場所に居を構えており、何をするにもまずは町に降りなければならない。山の麓までは早足で歩いて約一時間。自転車でも降れるのだが帰り道が悲惨すぎるので、自転車の使用云々は言うまでも無い。勾配が非常に急な為、冬なんかは道が凍っているという理由だけで学校側から公欠が貰えたりもする。だが少年にとっては、そのような事はどうでも良かった。授業がサボれるだとか、一般的に昨今の高校生が考えそうな観念を、少年は持ち合わせていない。少年からしてみれば、授業なんてものは苦痛でも何でも無い。だが楽しみというワケでも無い。有るから何だ、無いからどうした。という存在意義すら詰問される程度の事であり、知的好奇心も無ければ興味も無い。余暇時間に意識を保つ、一つの手段に過ぎなかった。
「ふう」
いつもの場所に着いて、少年は思わず声を漏らした。少年の居る場所は山の中腹くらいの場所で、眼下に壮大で優美な絶景を踏まえる場所。この目前に広がる恋人に対する歓喜の声として、もう一度少年は息を漏らす。毎朝、この恋人が見える地点に来ると移動のペースを落とす。何年も歩き続けていて、足元なんか見ずに歩けるし、それに今はこの恋人を見ていなければならない。そんな気さえ少年はしたのだった。体中の全てが視神経に集中して、そしてアタマなのかココロなのか、体のドコカでそれを受け止める。受け止めたそれが少年の至福へと誘う。少年が常を愛してやまないのはそんな恋人の存在があるからであった。どんなに嫌な事があろうとも、一度その姿を拝めば、まるで無かったかのよう感じられる。どんな苦痛にも負けない。少年は本当に、それこそ盲心的に、恋人であるこの景色を愛していたのだ。
ここから見える景色は本当に絶景であった。それは少年だけが感じていているだけの事では無く、この国全体にも認められている事実だ。だが生憎、立地条件の悪さから観光スポットまでとは至らない。だがそれでも登山家などを初めとして、色々な人がこの景色を眺望しに来ているのも事実であった。少年の家はそのような観光客等を迎え入れる唯一の宿として機能しており、少年は客が泊まりに来る度に胸が躍った。またこの景色を見に来てくれる人が来たのだと。大した頻度では訪れないが、それでも心の奥底から、少年は客の到来を楽しみにしている。それは自分の所持している素晴らしいモノは他人に自慢するという人間ならでは行動に非常に酷似していた。
凡そ、一時間程かけて山を降りきる。学校は山のすぐ麓にあるのでもう一分も歩けば学校に着く。だがこの時、灯は違和感を胸に抱いていた。現在は登校にしては常の時間。通勤ラッシュでは無いが、登校ラッシュと言っても過言では無いくらい生徒が押しかけている筈だ。少年の通っている学校の全校生徒数は三百弱。少年が住んでいる山、通称裏山には拔水家以外の人間は住んではおらず、山を降りきるまでは人の気配がしなくては当然なのだ。だが山を降りきり、学校にここまでの距離と迫って人っこ一人歩いていないのは、それは実に珍妙な光景であった。灯は裏側から学校の敷地に入る。本来は学校の外周を回って反対側から玄関の方へ回りこまなければならないのだが、これも少年の毎朝の日課で、学校の裏側の焼却炉付近から柵を乗り越えて敷地内に侵入する。こうすると玄関までの距離が一気に縮まる。言わば、ショートカットなのだ。しかも学校の裏側に居を構えているのは大体二十世帯余りであり、その中で、この学校へと通っているのは少年だけである。つまりは、このショートカットは少年専用と言っても過言ではない。この自分だけのショートカットを、少年はこよなく愛する。無論、ショートカットは違反行為である。規律事への背信行為にはつくづく嫌気の刺す少年であったが、この『自分だけ』という特別な支配欲は、少年の心に特別な隙間を作った。そんな特別な性癖を持つ以外は、少年はごくごく一般的な少年であった。そう……あの小さな女に会うまでは。
「はぁ」
灯は片手でアタマを抱えながら、とぼとぼと帰路に着いている。時間は午前八時半。まだ授業も始まらない時間、誰も居ない山道に少年は居た。というのも玄関口に行った少年の前には何とも安物の紙が一枚貼ってあって、そこには黒く大きい文字で絶望の言霊が記されていた。
『本日 創立記念日につき休校』
どうにもこうにも、そういう経緯で灯は大層機嫌を損ねていた。自分が招いたミスとは言え、どうにも遣り切れない気持ちが行き先を失ってジタバタとココロの中で暴れている。その解決として少年が導きだした結論。それは只一つ、唯一にして最高の恋人に会う事を楽しみにしてこの山道を登り続ける事だった。今日は時間に猶予があるから、何時間でも眺め続けてやろうという思いも胸にして。というか、それ以外に解決の方法が見つからなかったのも一つの事実。歩きなれた道をただ黙々と上る。ただの一声も発せず、まるでその役割だけを与えられた機械のように。だが普通の機械と違うのは、列記とした信念があり、ソレに向けて歩を進めているという事。何も難しい事では無い、好意を抱く者に対して会いに行くというのに如何程の理由が必要か。彼にとっては、家に帰るという事すら、ソレのおまけに過ぎない。
しばらくして、灯は例の地点へいた。ここに来るまで凡そ四十五分。結局、少年はその恋人を目の前にしてご機嫌であった。自身でも時々複雑に思う、単純すぎるこの性格。だが少年は別の時こそ、その事を考えるも恋人を目の前にしたこの段階ではその考えには至る筈もない。脳内は思考という概念を完全に停止させ麻痺していた。視覚以外の感覚を働かせるのが何か、臣下が国王に対する無礼であるように少年は視覚以外の五感を意識的にシャットダウンする。例え今、少年の耳元でサイレンが鳴っても少年は気付かないだろう。例え今、焼き鏝を腕に押されても少年は微動だにしないであろう。それほどまで盲心的に、狂信的に、少年は人成らざる恋人を崇拝し、愛している。
凡そ二時間程。灯は座り込んでその景色を謁見していた。その二時間の間、この山道は、もう正午を目前としているのに人っ子一人通りはしなかった。今日が特別というワケでは無く、普段からこの山道は人気が少ない。そもそも、この場所より山の頂上側には、灯の家以外に建造物は無く、ここから下へと降って行っても麓の住宅街まで特に目に付くようなモノは無い。特に一般人がこの山に来る理由など皆無であり、それこそ山の頂に住む、拔水家への訪問や観光以外にはこの山に立ち入る理由すらも無いのだ。立地条件の劣悪さから、観光所として華々しく栄えてはおらず、極端に人の出入りが少ない。山の敷地内を毎日のように出入りしているのは灯だけであり、日本有数の過疎地にも数えられ、住民数は拔水家と同じ人数である程。だが少年は、そのような環境を嫌ってはいなかった。むしろ好んでいたかもしれない。
恋人の美を心の隅々まで堪能すると、少年は帰路に付く事にした。地面に長い事、尻もちを着いていたせいか、若干腰部に痛みを感じる。立ち上がってズボンに付着した土を払い落し、ふっと体を山頂へと向けると、灯は心底驚いた。灯の位置から二十メートル程登って行った位置に灯の恋人を見下ろす人が居たからだ。普段、この山道で家族以外の人間に出会う事の無い灯は珍しい客の訪れに、聊か喜びを感じていた。
男は黒色のパナマハットを被り、同色のトレンチコートを着込んでいる。雄々しく伸びている白髭が妙な雰囲気を醸し出しており、非常に印象の強い人物である事には違いない。だからこそ少年は驚きもした。もし、あの男が下から登ってきていたなら、少年は男の到来を、絶対に気付く位置に居たからである。無論、男が上から降って来たのなら話は別次元にまで引き戻される。もし前者だったら……少年は頭を抱えて考えるのを止めた。止まっていた足を動かし、家へと帰ろうと山道を登り始める。灯の家に至るまで舗装されている山道は一本。必然的に、あの男の傍を通り過ぎる以外無い。男へと段々と近づいて行って、いざ通り過ぎようとしたその時、男は口を開いた。
「――この町は、なんて汚い町なのだ」
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