僕と彼女が初めて言葉を交えたのは高校2年の夏休みも終わりに差し掛かる頃。
ひたすらに紙切れをうず高く重ねた山に僕は追いたてられていた。
宿題、課題。またの名を実刑。この紙切れには様々な呼び方があるだろう。
学生達に安息を与える度に付随するそれは、 安息を与えるという目的を明らかに喪失した意識を孕んでいた。
しかし人間の力とは凄い物で、こんな低品質且つ、トナー臭い紙束へ器用に文字列を配列する事により恐ろしい程の負の感情を凡そ万人に万遍無く散布するそれは、まさしく人間が生み出した奇跡と称賛するに十分な条件を満たしていた。
でも紐を解いてみれば、それはグラム単位の重量にも満たない再生紙片にインクを垂らした物を束にしただけであって、つくづく人間社会における裏側の複雑さをを嘲笑するしかない。
そもそも夏休みがあるから宿題がある。ならばいっそ夏休みなんかいらない。
僕の信念はそうだった。
しかし学校の方針など僕程度一般ピープルがどのように足掻いたところで、年端もいかぬ少年がブルドーザーを持ち上げるのと同じくらいに変更の余地の無い事実であって、僕には親の仇のように憎悪を込めながら図書室でシャーペンを走らせる事しか出来ない現在を行き先も定めぬままに奔走していた。
その最中、図書室の空気が一気に変わるのが肌で感じ取れた。
濁流の押し寄せてきた陸地のように超絶的な変化。
しかし例によるように悲劇的な物では無く、むしろその逆であるような感覚。
何がなんだかわからない僕を尻目に根源は僕の背後をスッと通過した。
驚いた。
それだけの行為で何が何なのか、事の全てを理解出来たわけなのだが、それは余りに神秘的な光景に他ならなかったからだ。
美という概念の集合体。
少なくとも僕にはそう思えた女性が眼前にいた。
言葉を失う。
咄嗟に出そうになった声にならぬ声すらその行動を慎んだ。
まるでこの世のものとは思えぬ奇跡がそこにはあったのだ。
空気がざわめくのも無理は無い。勝手な解釈で僕は事の次第を完結させる。
図書室とて言うほど狭く無い。
僕の感覚で言えば小さな体育館程の広さはあるし、テーブルだって30は用意されているだろう。
僕はその中でも一番西側の窓に近く、マンガで歴史を解説している小学生用のような本が陳列する棚の正面のテーブルを愛用していた。
その一帯は少しおかしな本ばかりが棚に収められていて基本的に人は近付かない。
故にそのテーブルを使うのだが、まるでそこだけが見えない壁に隔てられているかのように人は存在しない。
入口からもしっかり見える場所だというのに不思議な物だと常日頃から思っていた。
彼女は歩を止める。
彼女の行動の全てを僕は両眼で追ったわけなのだが、まさか僕と同じテーブルに、ちょうど僕の正面になるように腰をおろすとは全知全能の神であっても予想できたであろうか。
自分の意識が現実から剥離され、逃避を繰り返すが為の幻覚なのではないだろうか。
はたまた僕は現在進行形で就寝中であり、僕の脳内に広大に形成された夢という名の妄想世界なのではないだろうか。
苛まれた。
気付けば彼女は僕と同じ机に、僕のそれと同じくらいの量の課題をパタパタと広げる。
いつの間にか僕と彼女の荷物で8人座れるように拵えられた円形のテーブルは埋め尽くされていた。
もう夏休み終了まで数日だというこの土壇場で、彼女は焦る事無く冷静に問題を解く(今にして思えば焦ったからと言って結果が覆るわけでも無いので彼女のとっていた行動は極めて普通な行為だったわけだが、何故かその時の僕は彼女がする事全てに過剰に反応していた)。
その様は華麗で気品があった。
図書室にはとても図書室とは考えられないくらいの西日が降り注いでいたのだが、それがまるで壇上の彼女に浴びせられるスポットライトのような気がして一層と際立てるのである。
そこでふと、胸のわだかまりが沸々と脳へ昇りつめていく。
喉を通りそのまま脳へ。
すると突如、脳内でとてもおこがましく恐ろしく、それこそ魔王退治に布の服と竹槍で向かう勇者のような度胸の要る行為がその姿を覗かせた。
―――彼女へ声を掛けよう。
僕は戸惑った。
自分は何て馬鹿な事を考えたのだろうと己を叱咤した。
理由などいらない。
勝機無き闘争は暴勇。
眼前で問題集を解く名画のような秀麗美人こそが”あの”彼女であるのだから、それこそ勝機なんて億に一つすらあろう筈も無い。
校長の顔や役職は知っていても名前は知らない生徒はいるかもしれない。
しかし同じ学校に在籍している生徒ならば誰もがクラスも名前も顔も性格も部活も知っているだろう超有名人が彼女なの
だ。
彼女が超有名たる理由は複数存在する。
その一つに入学試験での珍事が挙げられる。
学費免除の特待生を選抜する試験において、彼女は無音という音に包まれた厳粛な空間において、持前のハープを奏でるような清涼な声で場を叩き壊した。
「テスト終わりました。失礼します」
実に開始30分の出来事である。
制限時間270分の超高難易度を誇るこの試験を僅か30分で終わらせて試験官の制止を聞かずに華麗に会場より退出していくその様は誰が見ても力量を見誤った人間の諦めの図に見えたに違いない。
しかしこれが全教科満点と言うのだから有名人にならない筈は無かった。
私立でスポーツにも勉学にもとにかくがめつい我が校では、規則違反とはいえ超が三個ほど付く天才である彼女を拾わない理由などこれっぽっちも在ろう筈も無かった。
数日後に彼女の元には入学案内が届いたらしい。
裏口入学も囁かれたが、それは彼女が入学後に存分にその天才ぶりを振舞うと自然と気泡と化した。
彼女は秀才でありながら容姿は奇跡的な美を持ち合わせていた。
天は彼女に二物でも三物でも適当に与えていたのだ。
一万円札の人も彼女の事を見たならば、あんな事を言わなかったかもしれない。
そのような点も一つの要因だと考えられる。
そしてそれを裏付ける、フィクションに有りがちな性格も人々の記憶に刻まれ残り易い要因の一つなのだろう。
人々が彼女に付けた名が”死体”であった。
彼女は究極の無反応を意識か無意識か徹底している。
針を刺されても読書を続けるし、地震が来ても空を見続けるのをやめない。
勿論の事、凡夫などが声を掛けて何かが返ってくる道理など一つも無い。
それは生徒だけにも留まらず、教師も同じだった。
自分の必要だと感じる時以外には口も開かぬ少女。
それは社交性が無いだとか、クールだとか無視だとか、そういう次元を遙かに超越していた。
機械とて命令遂行に必要な部位に致命的な支障が出れば命令を遂行出来なくなる。
今の機械は頭が良い。
これが故障という奴で大体は故障状態に陥ったならば動かなくなるか、そもそも故障する直前に行動を停止する。
しかし彼女にはそれが無い。
彼女にとっての故障の有無はさておき、人間であり且つ生者であるならば、車に撥ねられ右大腿骨にひびを入れ額から2針を縫うほどの開口部を見せ、その口から山から流れる雪解け水のように血を流すという奴は十分に致命的な故障であるだろう。
それをなんの処置もせずにのうのうの教室の4階までの階段を上り授業を遅刻せずに登校するというのだから恐れ入る。
―――故に彼女はmachineと呼ばれずにcorpseと呼ばれる。
彼女は走らせ続けていたシャーペンを投げ捨てるようにノートの上に置いた。
赤い縁の眼鏡を外し、目蓋を閉じながら右の手で眉間を親指と人差し指で揉むように抑えている。
それだけを見たら、まるでどこかの宗教徒が神に祈祷を捧げているように見えなくも無い。
だが実際は単なる目疲れなのだろう。
これは僕の憶測であって、真実は神への祈祷なのかもしれない。
そうだとしたら何と絵になる光景であろうか。
彼女程の存在があれば、想像力に貧困な僕でも妄想が膨らむ。
僕は彼女の眉間を指で摘む様子を自然と視界に入るように見続けてしまった。
だから思わず、本当に思わず、まるで幼少の頃から兄弟同然に育った友人が振った話題に絡むように、心の声が何の躊躇いも無く体外へ出てしまっていた。
「目が疲れたのかい?」
気付けば僕の口は僕の思いとは裏腹にそう語りかけていた。
僕にとって彼女とはそんなに小さい存在では無い。
たった一目、今見ただけで恋に落ちそうな彼女の美貌には偉大な力がある。
願うならば彼女を恋人としたかった。
だからその蓋きりとして声をかけるきっかけが欲しいのも事実であった。
しかしこんなのは勇気でも何でも無い。
たまたまいじめられている子がそうされる様を気付かれずに見ていて、その場から立ち去ろうとしたら石に躓いたくらいドジな話。
こんな唐突な機会じゃなくて、もっと計画的で準備が入念に成された場で臨みたかった。
しかしそれは脆くも水泡に帰す。
何故なら今僕は初めて彼女に声をかけてしまったのだから。
無視をされないかと畏怖が躍り、何か返せと欲がざわめく。
彼女はまるで何も聞かなかったかのように動作を変えない。
ただひたすらに眉間を解している。
僕の声で彼女の鼓膜を振動させる事は適わなかったようだ。
実際は届いていても、彼女の脳内に僕の声が届いて中枢機関から無視という回答を得たのかもしれない。
どちらにしても、僕の冒険は旅立つ前にその終止符を告げる。
出発の帆をあげようとした時に突如として現れた魔王に襲撃されたのだ。
「神へ祈祷を捧げていたわ。神様お願いします。その有り余る雄大な力で私の人生をもう少し愉しい物としてください。それが出来ないなら、その有り余る雄大な力で御身の自害を図ってください。ってね」
そう思っていたからこそ彼女の発言には毒気を抜かれた。
彼女は眉間に当てた手を放し、その端正に整った顔面をこちらへと向ける。
美しく整った完全な美に思わず呼吸を忘れ見入ってしまっていた。
「そもそも人が言うような”かみさま”なんて存在はきっと居ない。居たとしても私達程度が想像出来るような存在では無いからこそ“かみさま”なの。どんなに発想力に富んだフィクション作家が想像しても、足元にも届かぬ存在で無ければ”かみさま”だとは認めない」
彼女は笑みながらそう漏らした。
その笑顔と言ったら太陽なんて比較にならない程の輝きを持っていたように思える。
だからこそ太陽における黒点のような、そんな部分的な陰りははっきりに見て取れた。
太陽より眩しい筈なのにそれは真性の笑顔には見えない。
そんな野生とも呼べる直感に考えを任せ、僕は一つの疑問を心に浮かべた。
案の定、先程と同じように気付けば口からポロッと疑問は零れ出ていたわけなのだが。
「―――じゃあ聞くけどさ。君の言う”かみさま”が存在したとして、どうして祈祷を捧げたんだい?そもそもの前提として、君程度が”かみさま”という存在を認識して、意志の伝え方を知っている時点でそれは”かみさま”では無いんじゃないかな?」
すると彼女は何が面白いのか鼻で笑う。
「温故知新って言葉知っているかしら。半分だけの意味を説明すると先人の教えはとりあえず聞いておけって意味。こういう方法で神様に意志を伝えたっていう人間が居るらしいからとりあえず見様見真似でやってみただけ。こんな傍から見れば馬鹿馬鹿しい行為でも、私にすればこれで返事が返ってきた場合に今までの考えを根底から覆されるような驚異的事態な
の。尤も、返事が返ってきたところで私がそれを”かみさま”と認めるかは別次元の話だけど」
思った以上に彼女は高圧的に、そして饒舌に語ってきた。この反応は僕自身が一番驚きだ。
「結局は”かみさま”に居てほしくないのかな。そう聞こえてしまう。」
素直な感想だった。存在を許さない存在に在ってほしいと思う超限定的で我儘な思考。
とても彼女の口からは出たと思えぬ子供じみた言葉だった。
けどそれが彼女らしいかと言われたら、それほど僕は彼女の事を知らない。
先入観だけで彼女の発言を否定しがちにした事に、ささやかながらの罪悪感を感じずにはいられなかった。
「そんな事は決して無い。恐らく私ほど”かみさま”に存在して欲しいと思う人間はいない。私はまだ見ぬ、そしてこれからも見る事も叶わぬその存在に恋い焦がれてすらいる。だけどそれは存在して欲しいが故に存在してはいけない。見たいが故に見てはならない。そういう存在なの。人類の歴史だって浅くは無い。その短くは無い歴史の中で文学は発達して人間の想像力は芸術と評価出来る域に確立したわ。」
彼女は一呼吸置くと外していた赤い縁の眼鏡を掛け直す。
まるで仕切り直し、ここからが本番だと言うようにこちらを再度見据えなおしてきた。
「だから私には信じられないの。”かみさま”という存在が本当に我々の想像出来ないものなのか。もし神様が居たとして、”かみさま”とは限らない。私にとって空を飛んで天候を操り、万人にも勝る力を持って全ての事象を左右出来ると言うような神様は”かみさま”ではないの。”かみさま”は必要だけど神様なら不必要。
だけど私の人生を面白くしてくれるなら話は
別。 それすら出来ないなら自害なさいってね。」
「―――成程ね。その気持ちは未知への探求の初歩にして極みなのかな。良いと思うよ。そういう信念から新しい発見は生まれる。”かみさま”の存在が認識出来たなら僕にも話を聞かせてくれないかい?興味深いわけじゃないけど、興味が無いわけじゃない」
彼女はまたあの笑顔を浮かべながら相槌を打つ。
すると彼女はテーブルに広げた宿題をバッグへと片付け始めた。
「宿題終わったの?さすがだね」
「終わってはいないけど此処に居たら貴方が気になって宿題が片付かないわ」
と面白い事を言ってくれるものだから、僕は少しながら動揺した。笑みを零してしまう。
それを彼女が見て取ったのか、声を出して笑っていた。
傍から僕達はどのように見えたのだろうか。
朴念仁の彼女がこれだけ雄弁に物を語る様は世間にどう映ったのだろうか。
この図書室には司書と三人しか居ないわけなのだが、客観的な目がとても気になった。
人がもっと居れば話を聞けたのにと後悔の念が少しだけ心の中をジタバタする。
彼女がカバンに全てを詰め込み終え僕へ別れの挨拶を告げる。
なんとも言えない不透明な毒が頭を駆け巡った。
これで別れるからこそ、僕は去りゆく彼女の背に語りかけずにはいられなくなった。
「本当に祈祷なら―――眼鏡を外す必要はあったのかい?」
僕がそう言うと、僕の数メートル先で彼女の動く背後がピタリと止まる。
長く腰まで靡く髪だけがゆらりゆらりと動きを止めずに動き続けていた。
「だから君が祈祷をしていると言った時に僕は驚いたよ。そうかもしれないという考えは考慮したけど、眼鏡を外した時点でそれはな―――」
「ねぇ」
少し強い口調で、僕の言葉を遮るように彼女が背を向けたまま語りかけてくる。
司書の姿が見えないのと、辺りに誰もいない事から声を掛けられたのは僕なのだろう。
「なんだい」
応答を求めた相手が僕で正解なのか、僕がそう答えると彼女は身を翻して僕の方を向いた。
「今わかった。“かみさま”だか神様だか知らないけどね―――居るみたいよ。」
そう言う彼女の顔は先程とは違う、少量で死に到る猛毒を孕んだような素敵な笑顔だった。
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